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弘法水


弘法水ってご存じでしょうか.空海(弘法大師)にまつわる伝説の水です.科学万能の時代に伝説なんて...と言わずに,ちょっとだけお付き合いください.きっと新たな世界が開けるものと思います.

私の学位論文『弘法水の水文科学的研究の要旨を掲載しています. 稚拙な内容で恐縮ですが,ご覧頂ければ幸いです.

私の弘法水に関する研究の一部が,辻野功編(2003):「大分学・大分楽」明石書店(定価2000円).に,第五章「 大分の伝説の水を科学する」と題して掲載しています.興味のある方はご覧頂ければ幸いです.

弘法大師伝説の詳しい情報は弘法大師空海と高野山への旅里道の弘法さんなどで見ることができます.

弘法水の分布

1.弘法大師伝説の水とは

 弘法大師にまつわる伝説は全国に5000以上,水関係だけで1600以上あります.典型的な弘法大師伝説の水は次のような話です.

 「喉が乾いた大師が水を所望する.老婆が遠方から水を運んで快く水を提供したので,水に不自由なこの土地に同情し,御礼に杖で地を突いて水を出す.」

一方で下記のような伝説もあります.

 水涸伝説:水を惜しんだ老婆が,嘘を言って大師を追い返す.すると湧水や井戸が白濁したり,涸れてしまって水に苦しむことになる(全国に200ヶ所以上あります).

 その他にも,次のような伝説があります.
   ※塩の入手に難儀していることに同情し,塩水井戸を湧かす.
  ※土地を荒らす竜を閉じこめ,竜が悔い改めて水を湧出させた.
  ※料理されそうになっている鮒を助けたところ片目の鮒になった.
  ※盲目の老婆に水をもらい,御礼に眼病に効く水を湧出させた.

これらの弘法水は,これまでの調査で日本全国に1,400ヶ所ほど存在していることを確認しています.その名称には次のようなものがあります.
 弘法水,弘法清水,弘法井戸,大師の水,清水大師,御水大師 杖突水,御杖の水,杖立清水,独鈷水,金剛水(遍照金剛),塩井戸(水湧出) 加持水(加持祈祷による),閼伽水(聖なる水),硯水(すずりみず,書道)

 弘法大師(空海)略年表
  774年(宝亀5年)讃岐の国(香川県)生
  794〜803年の間行方不明
  804年に最澄と共に遣唐船で入唐
  806年帰国
  806〜809年の間行方不明
  809年嵯峨天皇の時上京が許され,高尾山寺に入る.
  810年薬子の変が起こり,空海は鎮護国家のための大祈祷を行う.
  816年帝より高野山を賜り開祖に着手 821年5月,故郷四国讃岐の満濃池の修築
  835年3月21日入定
  921年朝廷より「弘法大師」の諡号



表 各都道府県の弘法水伝説数
        2003.6.19 現在
都道府県 都道府県 都道府県
北海道 0 石川県 56 岡山県 34
青森県 5 福井県 23 広島県 35
岩手県 29 山梨県 19 山口県 9
宮城県 19 長野県 53 徳島県 35
秋田県 6 岐阜県 8 香川県 66
山形県 43 静岡県 15 愛媛県 27
福島県 41 愛知県 28 高知県 30
茨城県 32 三重県 35 福岡県 6
栃木県 29 滋賀県 25 佐賀県 3
群馬県 95 京都府 35 長崎県 8
埼玉県 15 大阪府 36 熊本県 18
千葉県 23 兵庫県 22 大分県 25
東京都 15 奈良県 139 宮崎県 2
神奈川県 22 和歌山県 134 鹿児島県 14
新潟県 37 鳥取県 3 沖縄県 0
富山県 27 島根県 8    
        合計 1389
           

2.弘法水の分布と水文学的特徴

 弘法水の分布は日本海側と東海地方に少ないことがわかります.これは水資源と関係があるようで,溜池の分布ともよく似ています.また,昔からの街道沿いに分布する地域と,塊状に存在する地域とがみられます.県別にみると岩手県,福島県,長野県,奈良県,岡山県に多く,伝説や民話の多い地域に数多くみられるのが特徴です.また,平地には弘法水はほとんど見られず,丘陵地や山中の谷頭や地形の変換点,山頂などに多くみられます.
 現地調査から,弘法水の湧出量はほとんどが1l/sec以下であり,その半分以上は0.1l/secのごく小さな湧水であることがわかっています.これら小規模の湧水が1,200年まえから現在に至るまで湧出しているとは考えにくいことで,水文学的には非常に興味ある湧水といえます.なおいくつかの弘法水では,潮汐に感応して湧出量や井戸の水位が変化するものがあります.

3.弘法水の水質異常

 弘法水には,変わった水質(例えば,塩水井戸,白濁した水等)のものが知られています.これまでに調査した弘法水の水質分析を実施した結果,水質異常を示す弘法水が多く見つかりました.例えば火山や石灰岩地域ではないにもかかわらず,pHが高かったり,極端に低い例が見つかりました.また,無機主要成分にも異常な値を示す弘法水が多く,特にカルシウム,硫酸,硝酸濃度の高いものが多く見いだされました.聞き取り調査ではゲルマニウムやホウ酸が溶けているといわれる弘法水もありました.これらの弘法水の中には薬水として利用されているものが多くみられます.最も典型的な例は,pHが低く硝酸イオン濃度の高い弘法水が,眼病に効くといわれています.弘法水の効能,利用法には次のようなものがあります.
 眼病・胃腸病・皮膚病・疣取り・火傷・万病・健康増進・不老長寿・安産・書道(硯水)・茶の湯・仕込み水(酒・味噌・醤油)・紙漉き・水虫・害虫駆除など.

4.伝説の水と弘法水の用途

 弘法水は湧出地点の特徴と湧出量が少ないことから,その用途は緊急時の飲料水として利用される場合が圧倒的に多いようです.それ以外にも独特な水質とプラシーボ(偽薬)効果から,病気(特に眼病や胃腸病)に効く薬水・霊水として利用されたり,空海が書道の二聖・三筆と言われたように,硯水(字がうまくなるといわれている)として利用される例が多くみられました.しかし,他の伝説の水は病気や長寿の水としても利用されますが,仕込み水などの実用的な水として利用されるのが特徴です.
 伝説の水の中には白濁した水が存在しますが,一般的に弘法水が悪水として伝えられているのに対して,他の伝説の水では化粧水として利用されています.これは小野小町等の女性が登場する伝説や疣水の中に多くみられます.そのいくつかの水質を調べたところ,特に悪水と考えられるような成分は検出されませんでした.皮膚によいということから,白濁する原因は粘土分であろうと考えられます.

5.伝説の水に登場する人物

 様々な伝説全集や郷土資料等から伝説の水を抽出し,人物毎にその数を調べてみると,弘法水が圧倒的に多く,伝説の水の半分,登場する人物の3分の1を占めています.もっとも伝説の水をすべて調べ上げているわけではありませんが,2番目に多い安倍晴明(陰陽師)でさえ70ヶ所しかなく,今後の文献調査でもそれほど増えるとは考えらません.以降,歴代天皇(約20ヶ所)や蓮如(10ヶ所)を始めとして歴史上の有名な人物が上位を占めます.また,弘法水が日本全国で見られるのに対して,他の伝説の水は,その人物の活躍した狭い地域内でしかみられない場合が多いようです.
 いくつかの文献の中には最初の日本全国地図を作製した行基にまつわる水が全国各地にあると書かれていますが,これまでの文献調査では溜池の築造などは多くみられるものの,湧水を出したという伝説は7話しか見られません.行基は弘法大師より100年ほど前の人物であり,本来行基水であった水が弘法水に変ってしまった例が多いと考えられます.

6.まとめ

 弘法水は大師自身が掘当てた水と考えるよりは,水量はわずかながらも水の乏しい地域に数百年もの間変わらずに湧出し続け,淘汰された湧水・井戸水と考えるべきだと考えられます.一方,無数の湧水,地下水の中で特殊な水質を持ち合わせ,疾病(特に眼病・皮膚病)や健康増進,その他の水として利用できたものは,当時の衛生状態や医療技術レベルから薬水・霊水として用いられるようになり,それが水神信仰とつながって弘法水となったと思われます.これらを合わせて考えると弘法 水の本質とは鉱泉・温泉であると考えられます.
 伝説の水は,その登場人物と深く関わって,その用途や水質,水文学的な特徴の見られることがわかってきました.その中で弘法水は日本を代表する伝説の水であり,一方で非常に特殊な存在でもあるともいえるでしょう.

 

日本最北の弘法井戸(青森県むつ市) 弘法井戸(山形県西川町)

 

 

 

 

 

 

 

 

弘法の塩井戸(千葉県館山市):塩水

中の寺の霊水(富山県大山町)

 

 

 

 

 

 

 


杖の淵(愛媛県松山市) まつどくんかわ(鹿児島県坊津町)

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献
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河野 忠(2002):弘法水の水文科学的研究.平成14年度学位論文(立正大学),pp135.
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